メジャーで見事な二刀流を成し遂げ、日々歴史的な記録を打ち立てている大谷翔平選手。
どうやったらあんなすごい選手に育つのでしょうか。
この記事にたどり着いたあなたも
- 幼少期のすごいエピソードを知りたい!
- 正統派の残した武勇伝は?
- 野球以外の意外な記録って?
このような疑問や思いを抱いているのではないでしょうか?
最後までお読みいただいて、幼少期の大谷翔平選手を知って、もっと応援する糧にしていただければ幸いです!
では、早速見ていきましょう。
大谷翔平の幼少期エピソード
The @BallySportWest broadcast has been showing photos of players and their moms today … which has led us to this young Shohei Ohtani gem pic.twitter.com/gLXWELexiz
— Jack Harris (@Jack_A_Harris) May 9, 2021
まず名前の由来から調べてみました!
「翔平」という名前は数少ない訳ではありませんが、
岩手県奥州市出身の大谷翔平選手は生まれた地にゆかりのある戦国武将・源義経が飛翔(ひしょう)し、一世風靡したことにあやかり「翔」の字を、地名の旧名である平泉の「平」を合わせて「翔平」と名付けた。
正確な理由は、ご両親にしかわかりませんが、とてもいい名前ですよね!
否定する訳ではありませんが、現代を横行するキラキラネームと比べて、ゆかりある地から名前を受け継ぐことは、個人的に格好いいと感じますし、きっと名前にあった性格や人格に育っていきますよね!
そう言った意味からも、今の大谷翔平選手にあった名前ですよね!
話は変わりますが、大谷翔平選手は1994年7月5日に生まれました。
もうじき27歳ですから、まだまだ選手としての記録は伸びていきますし、むしろこれから脂がのってくるのではないでしょうか?
生まれた時は3,400g程度だったようで、平均的な大きさですね。
ですが今は193cmと、日本人離れした最高の体型を誇っています。
体格についてはこちらの記事でもまとめていますので、是非読んでみてください!
幼少期の画像を探してみると、意外と出てきましたので紹介しますね!
大谷翔平の武勇伝は?
調べていくと野球にまつわる幼少期の武勇伝が出るわ出るわで、まとめ切れないくらい多くありました!
その一部だけですが、紹介しますね!
小学生
奥州市立姉体小学校3年時に水沢リトルリーグで野球を始めた大谷翔平選手。
当時からストレートのノビが凄かったようで、バッテリーを組んでいた捕手の体が勝手に逃げてしまうほどのピッチャーだったようです。
小学校5年生の時には110km/hを岩手県営野球場で記録しています。
小学生にしてその球速は規格外で、全国大会にも出場を果たしています。
中学生
奥州市立水沢南中学校に在校中は、父親がコーチを務める一関リトルシニアに所属し、ここでも全国大会に出場しました。
全国大会へ駒を進める大事な試合では、投手として6回までの18個のアウトの内17個を三振で仕留めるという桁外れの武勇伝も残しています。
なお、当時の決め球は今とは異なりスライダー。ストレートとスライダーを駆使してメジャーで活躍していますが、伝家の宝刀スプリットはまだ習得していなかったようです。
また、バッティングも規格外。
1年生時に行われた福島県での合宿中、センター方向に飛んでいった打球は、そのまま場外へ。
それだけならまだしも、場外に飛んでいった結果、信号機に直撃。
見るも無惨に壊れました。
大谷翔平の意外な記録は?
引用元:KJCLUB
大谷翔平選手が残した意外な記録として、小学校1年生の時に描いた絵があります。
実は絵が上手いと言われることもある大谷翔平選手ですが、こちらの作品は大きな画用紙全体をうまくとらえて描かれていますよね。
入賞作品であったかまでは、読み解くことはできませんでしたが、意外な一面も持ち合わせていることは事実のようです。
まとめ
大谷翔平選手の幼少期について調べてみました。
昔から人懐っこい性格で誰からも愛されていたことは今も変わらないですね。
バットを手渡しでボールボーイに渡すと言ったプレーの合間に見せる些細な行動でも多くの多くの野球ファンを魅了しています。
もはや野球ファンではない方の心も鷲掴みにしているのではないでしょうか。
今回はそんな大谷翔平選手のルーツを探るべく調べてみましたが、幼少期からやはり野球の実績が凄かったですね。
そんな情報も含めてこれからも応援していきたいと思います。
ということで「」と題してお送りしました。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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